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「モーツァルトのレクイエム」考
「モーツァルトのレクイエム」考
9月27日にザルツブルグ、10月1日にプラハでモーツァルトのレクイエムを演奏する事になっていますが、この天才作曲家が残したレクイエム、なぜ彼は途中までしか書けなかったのでしょうか。このレクイエムを作曲したきっかけはあまりにも有名ですが、そのレクイエムの作曲依頼から死ぬまでの間、約6ヶ月近くもモーツァルトには時間がありました。もちろんその時期に2つのオペラやクラリネット協奏曲等他の作曲に忙しかったのは事実ですが、あのモーツァルトなら書ける時間は十分にあったと私は思っています。
亡くなる年の7月頃、オペラ「魔笛」の作曲中にたぶんレクイエムの依頼の手紙をモーツァルトは受け取っているはずですが、その後プラハからオペラの依頼が入ってきてしまいます。そのオペラは「ティートゥスの慈悲」で18日間という猛スピードで書き上げられているのです。「魔笛」の作曲を一旦中断して「ティートゥス」は作曲されているのですが、それではなぜレクイエムは依頼を受けてすぐ完成されなかったのでしょうか。レクイエムの依頼者から催促されていたにもかかわらず。
プラハで「ティートゥス」の初演を9月の初めに終え、ウィーンに帰って来てすぐモーツァルトは「魔笛」の初演の指揮もして大成功を収めることとなりました。その後10月初めにはクラリネット協奏曲を完成させています。ようやくレクイエムの作曲を始めた様ですが、ちょうどその頃モーツァルトは妻のコンスタンツェに変なことを言い出しています。「僕はもう長く生きられないだろうという確かな予感がしている」そして「僕が毒を盛られた事は確かだ。僕はこの考えを頭から追い払う事ができない」どうもモーツァルトはプラハから帰って来てから体調が目に見えて悪くなり、それを毒を飲まされたという風に思い込んでしまった様なのです。ただ現実に死の病が襲ってくるのは11月の終わりで亡くなる少し前、モーツァルトが毒の事を口にしたのはそれより随分前のことなので、たぶん毒を飲まされたというよりそういう精神状態になっていったと私は思っています。
それではなぜモーツァルトが毒を飲まされたなんて思うようになったのかを考えてみました。どうもやはりレクイエムの作曲が関係しているようで、私が想像するに、プラハの滞在中もプラハから帰ってきてからもきっとレクイエムの事はずっと彼の頭から離れなかったと思いますし、あれだけ筆の早い人ですから頭の中に曲の構成はできていたと思います。ただコンスタンツェがこんな事を言っています。「あのレクイエムは彼のひどく感じやすい神経にさわっていた。彼に頼んでその譜を取り上げてしまうほどでした」モーツァルトは一時レクイエムを離れ代わりに彼の最後の完成品となるフリーメーソンのための小カンタータK623を書いていて、このコンスタンツェの話からするとレクイエムの筆の遅さは病気の為でなかったことになります。それではなぜ遅かったのでしょうか。
私はやはりモーツァルトにとってあのレクイエムは完成できなかった何かがあの曲の中にあるのではないかと考えてしまいます。以前モーツァルトは死を恐れていませんでした。ただ晩年はもっと長く生きたいと思うようになったのは事実で、もしかするとあのレクイエムはモーツァルトが自分の死を意識するきっかけとなり、生への強いこだわりにがレクイエムの完成を無意識に拒否していたのではないのでしょうか。ですからもう少し長く彼が生きて、時間があったとしても未完のまま終わっていた可能性はあります。こんな話も残っています。最後の完成品小カンタータの初演が終わりモーツァルトは意気揚々と家に帰ってきたそうで、「これは僕の最高の作品だ。僕は病気だったから毒を盛られたなんて馬鹿げたことを考えたんだ。レクイエムの譜を返しておくれ。続きを書くんだ」
こうしてまたモーツァルトはもう一度レクイエムの作曲に取り掛かりますが、その後病気が始まり、ついに死と闘うことになってしまいます。このレクイエムは途中のラクリモサの途中までしかモーツァルトの手で書かれていませんが、残りを完成させた弟子であるジュスマイヤーが直接彼から全体構成や細かい指示を受けたと考えられています。私はその事の信憑性を高く信じていて、なお且つ彼のこの曲への想いが全曲を通じて流れていると思っています。なぜならモーツァルトの音楽や精神の続きはやはりモーツァルトにしか書けないはずだから・・・・。
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